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光と風の環 <始まりの刻 10>

著者:真悠
1460

 セイクリッドの射るようなきつい瞳が、エルミアを見据えている。いや――エルミアであった人であろう。紅い唇からクスクスと嘲笑が漏れていた。やがて、その唇から言葉がかなでられる。

「ク、ククク…相も変わらず…小癪な事をするものよ。わらわの出現と同時に結界を張るとは…。いまだにそなたの超常力(ちから)、尽きぬ上に無尽蔵と見える…。あやつが欲しがる訳よ。」

 その言葉にセイクリッドが首を上げ視線だけで、エルミアを見下していた。声も容姿もエルミアと全く違う(あで)やかな人物。知らず知らずのうちにセイクリッドの右手に拳が握り締められていた。

「…褒められている様だが、てめえにそんな事言われて嬉しいものかよ。で…? 何をしに今この場に現れた?」

 セイクリッドの冷たい言葉に、美しく艶やかなその女性の眉がピクリと吊り上る。

「ふん、そなた…刻を越えてなお、相も変わらずの礼儀知らずじゃのう。わらわ自身が望んだ事ではない。…この身体がわらわを呼び寄せた…そう、愚かにも己の全てを捨ててなぁ。仕方があるまいて。」
「はん…もっともらしい事を良くも言う。」

 セイクリッドの冷たい言葉に(なまめ)かしい女はクスクスと笑い出す。

「ホホホ、もっともらしい…ではない。本当の事ぞ? いい加減理解したらどうじゃ…? そなたの愛しき女はわらわに身体を明け渡したのだと。」

 その艶かしい女性は、セイクリッドの背中にしなやかな手を伸ばそうとする。が、セイクリッドはそれを良しとせず、スイとその腕から身体をよける。女の眉がキリキリと吊り上り、紅い唇を噛み締めていた。

「未だに…わらわのものになる気は無いと、のたまうつもりかや? この小娘はそなたを受け入れたくて、うずいていると言うに…。冷たい男よの。この小娘の思いを遂げてやらぬつもりかや?」

 その女の言葉にセイクリッドもまた冷笑を浮かべる。

「ふん、娼婦として扱われたいか? 生憎だがどんな事になっても、てめえを抱くつもりは無いぜ。」
「ホホホ…そなたこの小娘の事をそのように思っておったのか。なればこそ、この小娘にわらわが付け込む隙があった訳じゃ。わらわを拒む男は、この世の中でそなた達だけぞえ。せっかく…この小娘が自分の全てを投げ打ってわらわにそなたを譲ったと言うのに。わらわの方が小娘より良いとは思えぬのか?」
「……アホな事抜かしてんじゃねぇよ。てめえと俺の女(フィン)を一緒にするな。比べ物にすらなりゃしねぇ。」
「戯けた事を言っておるのはそなたの方であろうて。この身体は確かにあの娘の身体。その身体を前にそなたが何を出来る?」

 女の言葉にいつの間に抜いたのかセイクリッドの剣が、その女ののど笛を狙って光っていた。それは一瞬の出来事であった。女もその様子に目を見開いて驚いていた。

「何って…こう言う事が出来るが?」
「フ、わらわを斬るとでも? そなたにそれが出来ると言うか? クク、自分の手で自分の愛しい女を殺す事が、そなたに出来るものか。」
「ほう? てめえが俺の女と同じだと言うか。は、つくづく俺もコケにされたものだな。」
「何…?」

 音も無くセイクリッドの剣が、なぎ払われる。女はその剣を間一髪でよけるが、女の着ているサラーナが切れて白い胸が露わになりその上に、一筋の紅い線が浮き出て紅い雫が滴り落ちる。
女はチッと舌打ちをして、その胸の紅い線を抑えている。この身体を前にして、本気でセイクリッドが自分に剣を向けるとは、思っていなかったのだろう。悔しそうな顔つきになっている。

「…本気かや。そなたがこの身体を斬るのか。それも面白かろう、この身体が事切れた後、そなたの悲嘆にくれた姿が見られるのは、わらわにとってもあやつにとっても溜飲が下がる事じゃ。」
「安心しろ、それはありえねぇから。それにこれ以上、てめえと奴を一緒にさせる気は毛頭ない。身体だけじゃなくその輪廻も断ち切ってやるぜ?」

 まるで楽しいと言わんばかりに嘲笑を浮かべるセイクリッドに、女は逃げようとして周りを見渡した後、驚愕を隠せなかった。最初に彼が張った結界が、その空間に満ちているだけではなく、自分をも圧迫していたのに気が付いたのだ。

「まさか、この結界は…!」
「ふん、てめえが最初に結界を張ったと言っていたのにな。それともこれをただの外界との接触を断つだけの結界だと思っていたのか?」
「…く、本当に…セイクリッド(神の意を貫く者)の名に恥じぬ奴よ…。外界との接触だけでなく、わらわの超常力までも封じ込めるとは…。」
「てめえに褒められても嬉しくない…そう言った筈だが?」

 セイクリッドが音も無く剣を構えなおしていた。女は深紅の唇をキリリと噛み締めると、不意に俯いて震えた声を出す。

「……あたしを…殺すの? セイルにとって、あたしは…それだけの存在なの? この女にのっとられているのに助けてもくれないの? そんなの、酷いよ…。あたしを愛しているって言った言葉は…嘘だったの?」

 突如女の顔が、涙を浮かべたエルミアの顔になる。声すらエルミアのものであった。一瞬セイクリッドの顔に動揺が走る。そんなセイクリッドを見て女の顔に余裕の笑みが戻っていた。

「ククク…そなたがどのように否定しようと、この身体はこの小娘のもの。言い方を変えればこの娘は、わらわにとっての人質…。それでも斬ろうとするほど、冷たい男ではなかろう? セイクリッドという男は…。」

 逆転を確信したかのように、再びしなやかな女の腕がセイクリッドに触れようとする。セイクリッドはその手を強く払い除ける。セイクリッドの行動に驚いたのか、身体の動きを止める女。

「知っていると思うが…俺は自分の女至上主義でね。その他の女に興味も無ければ、優しくする気も無い冷たい男だが、それが何か? ふん…ド下手な芝居しやがって。さっきのが俺の女だと言うつもりか? 俺達をコケにするのもいい加減にしろよ。」
「道理の分からぬ男よ。わらわがこの小娘であり、この小娘がわらわだと言うておろうに。」
「は、全く違うって言ってるのが、判らねぇらしいな。貴様は。」
「どこがわらわと、この身体が違うと言うのじゃ!」

 女の言葉にせせら笑うセイクリッド。

「フン、何が違うか、どこが違うかだと? あいにくとてめえにゃ、一生かかったって判らねぇだろうよ。」

 ザワリとセイクリッドの身体から青銀色のオーラが吹きあがる。女は一瞬息を呑み込んだ後、気を取り直すかのようにセイクリッドから間合いを取り、少しずつ彼から離れる。神経を張り巡らせているのか、女の眼球が四方八方に動いていた。セイクリッドは、女のその様子に対して再び冷笑を浮かべる。

「……逃げ口を探しているようだが、創世の時のように逃がしゃしねえぞ。それにここには…誰一人として、てめえの助けは入れないぜ。」
「くっ!」

 セイクリッドの冷静かつ容赦の無い言葉が響く。女は再び唇を噛み締めていた。この身体は間違いなくエルミアのものではあるが、セイクリッドはそれすら無視して、超常力を封じ込められた自分を確実に斬るだろう。獣のように鋭い瞳が、それを物語っている。その険しい瞳は、女にも少なからず覚えがあった。

 

 

 ――遥か昔、創世の時代に幾度と無くこの男とは、敵同士として切り結んでいたのだから…。――

 闘いの中で数え切れないほど、自分と直に切り結びながら、決して自分のものにはならない男、セイクリッド。それは創世の時代を経てなおいまだに続く。その男の瞳が自分を映すのは、戦いの最中(さなか)のみ。
 そして現世では、今後の来世でも二度とあり得ないだろうシチュエーションの中で巡り合った。創世の刻に寄り添っていた創世の娘を捨て、自分の眠るこの身体を愛したにもかかわらず、自分とこの身体の持ち主を全く別人だと言い切る男。憎くて憎くて、はらわたが煮えくり返る。

 手に入れたくて、どれほど画策しても手に入らない幻のようなもの。激しいほどの渇望が、ずっと渦巻いている。どうすれば自分の握っているカード(エルミア)を最強にする事が出来るのか。どうしたらこの男は自分に(ひざまず)くのか。体駆で男を跪かせるのは到って簡単だった、悪魔といわれたフィブネスすら、自分の身体に夢中であったし、この身体を求めていたのは、自分がこの身体の奥底で眠っていたから。それは、ごくごく当たり前の流れであった。

 遥か太古から、自分を手にいれようとする男達は無数にいた。流した血もほぼ無限に相当するだろう。簡単に壊れていく人や星の命が面白くて、様々な手段で滅ぼしていった。自分を手に入れる者こそが、暗黒と破滅の中で君臨することが出来るのだ。フィブネスもその一人ではあったが、今のところフィブネス以上に自分の超常力を有効に使うものはいない。

 けれど…セイクリッドは真っ向から自分達に立ち向かってきた一人である。三聖神王(セグローカナル・ラーファス)、創世の娘、終世の娘。創世の娘と終世の娘は、自分達と戦うと言うよりは、この星をこの世界の全てを守り通そうとしていた。三聖神王の3人のうち2人がその役目を放棄した時も、セイクリッドだけは、とことんまでに自分達の邪魔をしてきた。どれだけこのセイクリッドに煮え湯を飲まされたであろうか。

 星や世界を護ると言うよりも、それを守るただ一人の女のためだけに、その力を余す事無く発揮してきていたのだ。最愛の妹を死なせた時も、セイクリッドの子供を殺した時も、セイクリッドのただ一人の巫女を殺した時も、そして…聖帝国ムーを滅ぼした時でさえ、自分達の手に堕ちる事無く敵対し続けた人物。

 ただ一度だけ、全てに絶望したセイクリッドを手に入れるチャンスはあったが、その時すら自分の誘惑を振り払い、自ら冥府に落ちた瞬間に神々から強烈な封印をされ、結局手を出す事が出来ず、ただ恨めしげに見ていただけだった。

『眠りの中にいる三聖神王のウェヌルド・アグリット(セイクリッド)が、残りの2人よりも先に目覚める刻、この世は暗黒と破滅に変わる。』

 それはこの世界の創世から暗黒の中に伝わる不文律。言い換えれば、セイクリッドを自分のものに出来るなら、世の中は自分とセイクリッドの思うようになる。それは…悪魔と呼ばれるフィブネスを遥かに凌駕する存在なのだ。だからこそ、フィブネスもこの身体とセイクリッドの事を狙っているのだ。

 自分とて同じである。なんとしてでもセイクリッドが欲しい。この男が自分のものになったとしたら、これからの自分が変わる。自分が気に染まない人物の言う通りにしなくてもよくなる。自分が求めた自由が手に入るのだ。

(――それって…彼を好きって事――?)
「な、に?」


 突然の声に驚く女。と、同時にセイクリッドの目にも留まらないような速さの二撃目が女を襲っていた。辛うじて剣の攻撃をよける女。

「何をぼんやりしてやがる。おねんねの時間にゃまだ早いぜ?」
「チッ…まっこと失礼な奴よ。このわらわに向かって剣を向けるなど…。」
「フ、剣が気にくわねぇって言うなら、これならどうよ!」

 セイクリッドはそう言うと、右手に持っていた剣を左手に持ち替えて、開いた右手で激しい超常力を爆発させた。それは、セイクリッドの超常力(マーナ)ではなく、聖霊の超常力(セーナ)であった。女の驚愕は絶頂に達していた。

「これは時霊王(ラーディス)空霊王(アルセリオン)の超常力! 何故この超常力をそなたが…!」

 女の問い掛けに、セイクリッドは冷笑を浮かべるが、返答はしなかった。女は自分に向けられた超常力に、思わずガードを張るが、セイクリッドに自分の超常力を封じ込められているため、思うような超常力を出せずに弾き飛ばされる。

「く、ぅ…。」

 壁に叩き付けられ、頭を左右に振っている女の前にセイクリッドは、剣を返し左肩に担ぎ上げその剣で、リズミカルにとんとんと彼自身の肩を叩きながら、立ち塞がっていた。

「さて…いい加減に遊びは終わりにしようぜ。」

 セイクリッドの感情のこもらない冷たく言い放つ言葉に、女の身体がゾクリと震撼する。かの時であったなら、この男と同等に戦えたものを今は、この男に封印されてしまっている全ての自分の超常力。深紅の唇を噛み締めセイクリッドを見上げている自分。こんなはずではなかったのに、この女の身体さえ切り札にならないと思わなかったのにと後悔の念が出てくる。

 ふと、女の手に剣の感触があった。それはこの身体が大事に持っていた剣。

「そうじゃの…この身体も結構な剣の使い手であったのぅ。」
「…ふふん、そんな状況で俺相手に剣を向けるか? さすがヤカキを名乗る女だよな。」

 セイクリッドの言葉に女は、はじめ驚いたような顔をしていたが、気を取り直すかのようにゆっくりと妖艶に微笑んだ。

「ホ、ホホホ…わらわの名、忘れていないとみゆる。たとえ今は適わないとしても…そなたに一泡吹かせなければ、わらわの気が治まらぬのでな。やられっぱなしは性に合わぬ…!」

 女はそう言うなり、セイクリッドに斬りかかっていた。セイクリッドもまたその剣を避けるため、自分の剣でガードする。金属の擦れるような耳障りな音が、彼の城の中に響き渡っていた。

「ふん、そりゃ俺のセリフだろうが。」

 剣での戦いは、互角とは言えず女には分が悪かった。さすがにセイクリッドは戦いの寵児であっただけ、その動きも見事なもので、女も戦いの中だというのに気持ちが高ぶるのが抑えられなかった。何度かセイクリッドの剣と剣を合わせていたが、ついに女の剣が弾き飛ばされる。

「どうした? それで終わりか?」

 女を馬鹿にするように挑発するように口の端で冷たい笑みを浮かべるセイクリッド。女も全ての策が尽きた―と思われたほんの一瞬だった。女はセイクリッドに判らないように空間に小さな亀裂を作り、その亀裂をナイフのように鋭利にさせ、それをセイクリッドの胸めがけて突き刺そうとしていた。その直後である。

(ダメ!)

 不意に響き渡った声にセイクリッドも驚いていた。

「フィン!?」
「くっ!」

 セイクリッドの目には、エルミアが女から飛び出して、自分を庇って女の前に立ち塞がっていたようにはっきりと見えていた。女はというと自分の作り出したナイフでその胸を貫いていたのだ。正確には…エルミアの手が女を止めるために女の胸に突き刺したのだ。つまりは、エルミアは自分の身体を自分で貫いたのである。その瞬間蒼く淡い光が女の身体の周りに集まる。

「フィン…このばっかやろう!!」

 セイクリッドの罵倒と剣を放り投げるような音が女の耳に遠く聞こえる。

「…っ、そんな馬鹿、な……。」

 女はエルミアの咄嗟の行動と、セイクリッドが剣を投げ捨てる姿が信じられなかった。たとえどんな状況になっても、はるか過去では、彼が剣を投げ捨てる姿などありえなかったのだ。
自分の読みどおりこの男はこのエルミアだけには、己の全てを捨て去ってもいいと思えるほどの甘さがあったのだ。もっとうまくエルミアを使えば、今の状況を打破しセイクリッドを自分の思いのままにする事が出来たのにと、後悔の念が次々と浮かんでくる。
だが今はそれが判ったとしても、どうにも出来ない。胸を押さえたまま床に倒れる。意識が遠のく瞬間、鏡のような床にエルミアの顔が自分と対照的に映る。

(……だめ…彼を殺しても…貴女のものにも、あたしのものにも…ならない、んだよ……。)
「…チッ…今世で…邪魔…する、は、己…自身…か…。そこまで……。」

 皮肉な笑みを浮かべた女の声に床がゆっくりと紅く染まり、エルミアは静かに瞼を閉じた後、それ以上答える事無くその姿を消していた。女もまた意識を手放す。

「フィン! しっかりしろ、目を開けてくれ!」

 自分の剣を放り投げ、胸を深紅に染めているエルミアを抱き起こし、必死の形相で声をかけているセイクリッド。エルミアは意識も無くセイクリッドのされるがままに身体をゆらゆらと揺らされていた。その間にもふわふわと蒼く淡い光が、2人の周りに集まっていた。無意識にその光に合わせるかのようにセイクリッドも青銀色のオーラを吹き上げていた。

 

 

 ――暗黒の霧が激しい唸り声を上げ渦巻く場所。一人の人間が膝を抱えて(うずくま)っていた。そこにもう一人が近寄る。

『…いつまでここにいるつもりなの。永遠に? それとも一瞬?』

 近寄ってきた人物は蹲っている人物に声をかける。蹲っていた人物は睨む様に近付いて来た人物を見上げる。それは、エルミアと女であった。辺りの霧が、ブワッと吹き上がりエルミアに襲い掛かるが、全く動じないエルミアに諦めたかのようにその霧の力が収まる。

『何故…わらわの思い通りにならぬ。』

 吐き捨てるような女の言葉にエルミアは苦笑していた。

『…この世の中で自分の思い通りに行くことなんて…ないよ。自分が中心じゃ…ないんだもん。でも…あたしも馬鹿なコトしたなぁって思ってる…。止める方法は他にもあったのに…よりによって彼の一番嫌がる方法をとるなんて…。』

 溜息混じりのエルミアの言葉に喉の奥でククッと嗤う女。

『わらわにとっては、溜飲の下がる思いじゃ。惜しむらくは、彼奴(きゃつ)がそなたを失って悲嘆に満ちている姿を見れないという事だがな。』
『…彼のコト…ただ憎いだけで何万年も追い続ける事って出来るの…?』
『な、んじゃと?』
『…人はどうして簡単に人を思うことも、憎むことも出来るんだろうね…。憎悪の中には必ず見えない思いがある事、知っている?』

 女は怪訝そうな顔をしながらエルミアを見上げている。エルミアは女に再び苦笑する。

『さっき…彼と剣を合わせていた時…どうしてあんなに焦っていたの…?』
『ホ、おかしな事を言うわ。そんな事がこのわらわにあろうはずも無い。』
『ううん、貴女は確かに焦っていた。…これだけ戦っているのに、どうしてこの男は自分のものにならないのかって言う焦りと苛立ち…それが貴女に勝機を失わせたでしょ…? その苛立ちさえなければもしかすると彼に勝てたかもしれないのに…。』
『そなた…何が言いたい?』

 女は唇を噛んだかと思うとかすかに震える声で、エルミアに問いかけていた。

『……貴女に比べればあたしの少ない経験上の話、よ。単純なところで愛憎は表裏一体だってこと。』
『そなた…本当にあの小娘かや? わらわに怯えていたそなたはどこに行った?』

 女の言葉にエルミアはやわらかく微笑む。

『そう、貴女に怯えていたのも、今ここにいるのもどちらもあたし…。ある人にね、背中を押してもらったの。悩んでいても苦しんでいてもどんなにみっともない事になっても、彼を思っていて良いんだって…。何の見返りもいらないんだって…。自分のままで全てと一緒に生きていけば良い、たったそれだけの事なんだよって教えてもらったから。だから…もう自分の事も怖くない。』

 エルミアがそう言うと、エルミアの左腕にしているアームレットが、鮮やかな光を放ち一瞬のうちに辺りに渦巻いていた暗黒の霧を四方八方に追いやると、そこにあったはずの女の姿も無かった。

「…うん、戻ろうね…。きっと烈火のごとく怒鳴られて…もしかしたら殴られるかもしれない。でも…それでも…あたしは彼の傍にいたいから…」

 エルミアはそう言うと、柔らかな光に包まれ自分の帰るべき場所に導かれる。

 

 

 部屋全体が青銀色と蒼い光に包まれる。セイクリッドは、その腕の中にしっかりとエルミアを抱きしめていた。自分がつけた真一文字の胸の傷と、彼を庇うために自分に突き刺した傷の痕がその中でゆっくりと癒されていく。

 エリクシエルの効果がこうまで彼女を痛めつけるとは、思ってもいなかった事であった。強く唇を噛み締めているセイクリッドは、エリクシエルを彼女に渡したファグルを呪いたい気持ちで一杯だった。恐らく、あのエリクシエルをきっかけにエルミアの中で眠っていたものが、目覚めてしまったのだろう。目覚めたと言うより、激しく揺り起こしたと言った方が当たっているかもしれない。ファグルを呪う以前に、それを止められなかった自分が情けなく疎ましく思う。

「…フィン…頼むから目を開けろ。誰が…誰がお前を犠牲にして嬉しいものかよ!」

 吐き捨てるように言いながら、エルミアの身体をさらにきつく抱きしめるセイクリッド。不意に抱きしめているエルミアの身体に柔らかな温もりが戻ってくる。

「…ん……。」
「…フィン……?」

 きつく抱きしめられて苦しいかのように、エルミアの身体がセイクリッドの腕の中で小さく身動(みじろ)ぎする。ほんの一瞬セイクリッドの腕の力が緩んだ。その様子の中、蒼く淡い光が瞬いたかと思うと余韻を残しながらふわりと消えていく。

「フィン!」

 セイクリッドの腕の中で、エルミアの漆黒の澄んだ瞳がその瞼の影から見え隠れしている。完全に瞼が開くまで何度か瞬きをしていた。まるで、全く記憶が無いかのように。

 セイクリッドの腕の中でぼんやりと意識を浮上させるエルミア。この感覚には何度も覚えがあったが、何故自分がその状況にいるのかまだ理解できていない…そんな感じであった。

 セイクリッドは安堵の息を吐き出すのと同時に、再びエルミアの身体をきつく抱きしめていた。

「く…るし…い……。」
「苦しい…じゃねぇ! この馬鹿女!!」

 罵声とともにセイクリッドは更に強くエルミアを抱きしめ、身動き一つ出来ないようにしていた。セイクリッドのその罵声で自分が何をしたか思い出したエルミア。

「ご、ごめん…なさい。あたし…。」
「やかましい! 謝罪なんか聞く気はねぇからな!」

 苦しさの中で途切れ途切れに謝るエルミア。だがセイクリッドはその言葉を聴かず、エルミアを軽々と抱き上げた後、ベッドに放り投げ、その上から彼女を押し倒していた。

「そんなに死に急ぎたいなら…本気で俺が殺してやる。」
「セ、セイル…!?」

 驚いているエルミアをよそにセイクリッドの唇がエルミアのそれを塞いでいた。

 

 

 全てを使い果たし、くったりと気絶しているエルミア。彼女の艶やかな白銀の長い髪を弄んで、その髪の先にそっと唇を当てているセイクリッド。サラサラと彼の指からしなやかな彼女の髪が落ちていく。気を失っているにも拘らず上気して、うっすらとピンク色に染まっている頬に愛しげにそっとキスを落とす。

 セイクリッド自身、どれだけエルミアを手にいれたいと願っていただろうか。怖がらせないように怯えさせないように大切にしていた――つもりだった。が、実際にエルミアを手に入れる時に、その思いすらどこかに飛んでいってしまった。
欲しくて欲しくて…エルミアに触れてしまった瞬間、大切にしたいという気持ちは吹き飛んで、無理をさせたような気がする。

 再びエルミアの髪に触れると、サラサラと音を立てる柔らかな髪。額に瞼に頬に唇にゆっくりとキスを落としていく。その後にふとエルミアの瞼が小さく動き、ものだるそうに瞼を開いていく。目を開けたにも拘らずエルミアの反応がなかった。まるで寝起きのようにボーっとしている感じであった。セイクリッドは苦笑を浮かべながら、エルミアの耳元で小声を出す。

「やっと…目が覚めたか。」
「え、は…ぁ!」

 背中がぞくぞくするほど響く声が、耳から背中に伝わり身震いするエルミア。そんなエルミアにセイクリッドがクスクス笑っている。初めは、エルミアも何が起きたか理解していない様子だったが、その頭をフル回転させたのかやっと何があったか思い出したかのように真っ赤になり、毛布で自分の身体を隠していた。

「あ、あの…。」
「……無理させたか? だが…謝る気はねぇし、お前のやってくれた事に対しては、許す気もねぇからな。」

 冷たい射る様な瞳がエルミアを見つめていた。エルミアはまるで心臓を鷲掴みにされたように硬直し、それ以上は言葉に詰まってしまった。どんな理由があろうと、セイクリッドを悲しませ苦しませたのは事実である。黙っているとジワッと涙が溢れて来る。

 想いが叶い彼に抱かれたとしても、彼を孤独に突き落としてしまっては何もならない。またその謝罪も受け入れてもらえないとあっては、どうしようもなかった。不意にセイクリッドの両手が、ベッドに横たわったままのエルミアを抱きしめる。セイクリッドの体温を直に感じるエルミアは、顔をますます真っ赤にさせていた。

「どんな状況にあろうと…自分を犠牲にしようとするのは…やめてくれ。そんなものを見せられるぐらいなら、俺の命を奪われた方がましだ。」
「そ、そんなの…それこそダメ!」
「……お前の話を聞く気はない。そう言ったはずだ。」

 遮断するかのように言い放つセイクリッドだったが、エルミアもそれに負けてはいなかった。

「き、聞かなくてもいいから言わせて…。あたしにとってはセイルが、とても大事なの…。だから…。」
「言い訳は聞かねぇって言ってるだろう。フィンの話を聞いていると、俺の気持ちはどうでもいい、ただ存在してろって聞こえる。」
「ちが…っ! そんなつもり…。」

 首を激しく左右に振って否定していたエルミアだが、身体を横たえているにも拘らず、クラリとめまいを感じていた。そんなエルミアを包み込んでいたのは、セイクリッドの腕であった。エルミアはホッと安堵の息を吐き出し、そのセイクリッドの腕に擦り寄っていく。エルミアのささいな行動に思わず血が騒ぎ、再び彼女を自分のものにしたいという衝動がセイクリッドを襲っていたが、その思いを必死にこらえ話を続けた事は、エルミアは全く知らない事である。

「お前が…フィンが本気で望むなら、俺の命を奪ってかまわねぇよ…。多分、この先俺を殺せるのは、お前だけ…だからな。それだけは覚えておけ。」
「セイル…、嫌よ、そんな事嘘でも言わないで。」

 エルミアの言葉に鼻から息をするようにフッと笑うセイクリッド。

「嘘なんか言ってない。言う気もないし。お前が信じようと信じまいとな、俺を殺せるのはお前だけだ。」

 セイクリッドの言葉にエルミアの瞳から涙が溢れてくる。一生懸命彼の言葉を否定しようとしている。セイクリッドと一緒に生きて行きたいと言う気持ちを強くした途端の宣告であった。エルミアには受け入れられるものではない。

「い、やだ…そんなの。セイルの…馬鹿ぁ。」
「あのなぁ、馬鹿はどっちだ。…ったく…お前と違ってありきたりの事じゃ俺は死なない。だからお前に言っている。ただし…。」
「いや! もう聞きたくない。」

 ポロポロと大粒の涙をこぼして耳を塞ごうとしているエルミアの両手を掴んで、セイクリッドは更に続けていた。

「ただし、お前の中のお前ってのは意味がないぜ? …もうひとつ言うならお前が誰かに操られて、俺を殺そうとするなら、それも効果がない。あくまで、フィン自身として…だからな。」

 セイクリッドの言葉に目を見開き、涙を落としながら息を吸い込んでいた。

「あたし…自身…? だって…あたしに成り代わったとしたら…?」
「あぁ、他の奴がお前に成り代わったってきっぱりと判る。俺の前でお前の真似をしても無駄だろうな。」
「……それ、似たような事をあの人にも言って…た? どうして、あたしじゃないって…言い切ってたの?」

 エルミアの質問にセイクリッドは喉の奥で、ククッと笑っていた。

「お前じゃないから。実際におまえ自身じゃなかっただろう?」
「え…。」
「どんなにあいつがお前に装ってたとしても…あの女だけじゃなく、他の奴がお前に装っていても、その身体を使われようとお前自身じゃないからな…。」
「だから…どうして判るの…?」
「んー、まぁ…普通は判らんか…肌の匂いの違いだよ。お前の肌の匂いは、他のどんな奴であろうと香水を重ね合わせようと絶対に真似できねぇからな。」

 セイクリッドの意外な言葉にカッとエルミアの顔が深紅に染まっていた。セイクリッドはそんなエルミアの白銀の髪を指で梳きながら逆に尋ねていた。

「フィンだって俺と奴の違いを言い当てているだろう。それこそ何で判る?」
「…それ…。」
「は? それって何の話だ?」

 セイクリッドの問いかけにエルミアも苦笑しながら、小さく答えた。

「あたしを…呼んでくれる名前…。“フィン”は父様と母様だけが呼んでくれていたから…。父様と母様にそういう風に呼ばれるのがうれしくて幸せな想いとするならね、セイルから呼ばれると…父様達が呼んでくれたのと全然違うの。」
「違うって…そんなに嫌か? 俺からフィンって呼ばれるのは…。」

 一瞬戸惑っているようなセイクリッドに、首を横に振って潤んだような瞳でセイクリッドを見上げているエルミア。その瞳を見てセイクリッドはゴクリと息を呑んでいた。

「嫌じゃないの…違うの。セイルに“フィン”って呼ばれるたびに、苦しくてせつなくて…でも全身が熱くなるの…。心臓がドキドキと高鳴って、すごく早く走り出すの…。それはセイルに呼ばれた時にだけなの…。他の誰が同じようにその名前であたしを呼んでも、そんな反応しないの…。だから…判るの…。あと、ね…セイルがよく言う“ボケ”って言う言い方。」
「…名前の呼び方とボケって言葉? …そんなもので?」

 セイクリッドの言葉にコックリと頷くエルミア。

「そう、だよ。お風呂場で…あの悪魔が貴方の姿になって、貴方と同じようにあたしを“フィン”って呼んだけど、全身が…凍りつくようになって…拒否したの。セイルだけだよ……あたしの事をそう呼んで、あたしの全身を熱くさせるのは…。そしてね、セイルがボケって言いながら、あたしを守って抱きしめてくれるとね…いつまでも、貴方の腕の中にいたいって思えるんだよ…。」

 セイクリッドの腕の中で安心しきったように彼の顔を見ながら微笑むエルミア。その表情があまりにも色っぽくて思わず、ゴクリと生唾を飲み込むセイクリッド。

「あ、のなぁ…お前それって俺を煽ってるのか…。」
「…煽る…? どう、して…?」

 セイクリッドはエルミアの質問に頭を抱えて溜息をついている。その直後エルミアから小さな寝息が響いていた。

「お、おい? フィン?」

 セイクリッドの腕の中でぴったりと寄り添って、穏やかな寝息を立てているエルミアに苦笑を浮かべるしかないセイクリッド。自分の腕の中の暖かな温もりが、(こご)った自分の傷を癒してくれている。愛しげに白銀のしなやかな髪をなで、眠っている彼女の額と瞼にそっとキスを落とす。
 セイクリッドの想いを理解しているのかエルミアは安心しきったような顔をして、セイクリッドの腕の中でまどろんでいる。


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