Novel

光と風の環 <始まりの刻>

著者:真悠
1628

 2人がその場所に辿り着いた刻は、遥かな地平線に太陽が半分沈みかかっていた。それにもまして辺りの色が、美しい薔薇色に染まる。

「…わ、ぁ…!」

 エルミアは思わず感嘆の声を上げていた。美しい――それだけでは形容できないこの世界の夕暮れ。ラムリアとは比べようのないほどの風景。辺りを見るだけで涙が出てきてしまうような過去に見惚れていたのだ。不意にエルミアの前を歩いていたセイクリッドの歩みが止まる。

「…これ以上は行けないが、お前が見たがっていたものはあそこだぜ。」
「!」

 セイクリッドが指差す場所にそれはあった。ラトラーゼルの元となった(いにしえ)のラトゼラール。夕日を受けて全てが薔薇色に染まっている大きな城。普段なら白く輝く城壁が、夕日の色に染まり、薔薇色に反射し、城全体が華やかな光を放っていた。その城を見るなり、エルミアの瞳からポロポロと涙が零れ落ちる。
セイクリッドは、ラトゼラールから視線をエルミアに向けた途端に見てしまった、彼女の涙に慌てていた。

「な…!? なんだって泣いてんだよ。」
「ごめ…、あ…余りに…綺麗で…。」

 セイクリッドは一瞬眉を潜め、その直後には大きな溜息を吐いていた。エルミアは一生懸命自分で拭って、何とか涙を止めようとしていた。不意にエルミアの目の前が暗くなる。不思議に思ったエルミアが顔を上げたのと同時だった。生暖かいものが、エルミアの両瞼に触れたのは―。

「ひゃあっ!?」

 驚きの余りエルミアは素っ頓狂な声を出し後ろにのけぞってしまった。転びそうになったところをセイクリッドの腕が、エルミアを支えている。

「…って、何つー声出してんだよ。まぁでも、泣き止んだみたいだな?」

 セイクリッドは、そう言いながらペロリと舌なめずりをしている。エルミアの両瞼に触れたものは、セイクリッドの舌だったのだ。それを理解すると、途端に真っ赤になるエルミア。

「な、何を…。」
「何って、フィンの涙を見るのは忍びないから、泣き止ませただけだぜ? ふ…ん、悲しい涙って訳じゃなさそうだな…今度は一体なんだ?」
「だ、だからって…セイルのばかぁ!」

 真っ赤になりながら、セイクリッドを叩こうとしているエルミアの両手をやんわりと掴み止めてくるセイクリッド。エルミアは両手をセイクリッドに捕まえられ、そのまま抱きしめられていた。自分の両手を掴んでいたセイクリッドの腕は、いつの間にか彼女の背中に回っている。

「今の涙、感激の涙だけとは言わないよな? 何で泣いた。お前を泣かせるためにここに連れて来た訳じゃねぇぞ。」

 セイクリッドの言葉にびくりと身体が硬直する。過去のラトゼラールが、余りに綺麗で涙が出たのは隠しようのない事実。そして彼女自身、気が付かない思いに駆られた事もあいまっていたのも、また事実だった。

 それをどうしてセイクリッドに判ってしまったのだろうか。抱きしめられるままにエルミアは、セイクリッドの顔を見つめていた。セイクリッドの射る様な視線が、エルミアの視線と絡み合う。思わずその瞳に見つめられ、居心地が悪いかのように俯くエルミア。

「な、なんでもないわ。」

 身体をよじってセイクリッドの腕から逃れようとするエルミアをしっかりと捕まえているセイクリッド。深い溜息と共に吐き捨てるような声が聞こえてくる。

「…ったく、ここに来て…何度目だよ。お前がそのセリフを使うのは…!」
「え…。」

 セイクリッドの言葉と共にエルミアの顎が強引にしゃくりあげられていた。と同時に彼女の唇が、セイクリッドの唇に塞がれる。エルミアの眼が大きく見開かれていた。

「んっ!?」

 僅かな抵抗のようにエルミアの喉から抗議のような驚いたような声がもれるが、彼女の唇を塞いでいるセイクリッドは、その声を無視したままエルミアの唇をすぐに解放する事はなかった。長い長いキスに2〜3回セイクリッドの背中を叩いていたエルミアの腕も、そのうち力尽きたかのようにスルリと落ちて頼りなげにセイクリッドのサラーナの裾を掴んでいた。

 キスが続いている間、少し背伸びしたようなエルミアの姿勢がだんだんと崩れて行き、自分で立っていられないかのように膝から力が抜けていた。――それだけ情熱的なものだったのだろう。沈み込むようなエルミアの身体を片手で支え、ゆっくりとエルミアの唇を開放するセイクリッド。

 エルミアの唇からは、小さく安堵の様な溜息が漏れ出していた。その両眼はまるで陶酔しきっているかのようにトロンとなっている。セイクリッドはそんなエルミアの額や頬にも軽いキスを落とす。いまだに正気に戻らないエルミアに苦笑し、ふと視線を周りに巡らせていた。

「これは…。おい、フィン。」

 周りの清浄さに気がついたセイクリッド。エルミアの両肩をそっと握りその身体を優しく揺さぶるが、彼女はまだ夢の中にでもいるかのように反応がない。再び苦笑するセイクリッド。

「はぁ…まだ俺のキスに慣れてくれないのかよ…。」

 セイクリッドは溜息をついた直後、ぴったりとエルミアと密着したかと思うと、少し身体を屈めてエルミアの耳に自分の唇を近づけた。

「…フィン、周りを見てみろ。」
「あ、ぁん!」

 突然セイクリッドに耳元で囁かれ、ぞくりとするような快感の余韻が背中に走ったかと思うと、エルミアは再び素っ頓狂な声を上げていたのだった。いや、素っ頓狂というのは正しくないだろう。艶っぽい声と言う方があっているかもしれない。その声を聞いたセイクリッドは、してやったりと言うような感じで、唇の端に笑みを浮かべていた。

「ほぅ…さすがに良い声を出すよな。俺の方がお前のその声にぞくぞくするぜ?」
「ば、馬鹿っ!」

 セイクリッドの軽口に正気に戻ったエルミアが、途端に真っ赤になり右手を振り上げ、セイクリッドの頬に向けていた。にやりと笑ったセイクリッドは、紙一重でエルミアの平手打ちを避けていた。

「知ってるか? お前の平手打ち…結構痛いんだぜ。何度も食らうのは勘弁だな。…っと、そんな事よりも周りを見てみろ。これから光霊(こうれい)達や精霊(しょうりょう)達そして蛍が、織り成す光の絶景が始まる…俺達は良い時期に訪れる事が出来たかもしれないぞ…。」
「え…? 光の、絶景?」
「そう、滅多に見られない情景。周りをよく見てみろ。」

 セイクリッドに言われるまま、ゆっくりを辺りを見渡すエルミア。きょろきょろと辺りを見渡していても、周りは草原だけで何もなかった。そのうち目を凝らしているとふわり、ふわり…と大地から柔らかな光が立ち上る。思わず息を潜める。
その様子は、薔薇色に染まる大地が、ふつふつと小さく息をしているかのような錯覚に陥る。まるで海や湖の底から水面に向けて上昇する泡のようだった。それは様々な色を放っていた。

「綺麗…。」
「…まだまだ序の口だよ。最高潮に達したら多分、フィンはまた感激してボロボロ泣き出すんだろうな。」
「ど、どうせあたしは涙腺が弱いわよ! セイルが呆れ返るほどの泣き虫で悪かったわね。」

 エルミアのいつもの切り返しの言葉に、セイクリッドが喉の奥でクックッと笑い出していた。

「そりゃぁな…理由もなく泣かれるのも困りもんだけどな…。けど、俺の前だから、どんな理由でも安心して泣く事が出来るんだろう?」

 セイクリッドの図星の言葉にエルミアは思わず息を飲み込んでいた。それはずっと彼女も無意識に感じていた。セイクリッドと二人で当てのない旅に出るようになってから、自分が泣く回数がかなり多くなってしまった事を。昔はこんな風に泣いた事などない。他人に涙を見せると言うか、自分の弱みを曝け出すという事が出来なかったのだ。

 そう言う意味では、三聖女を探していた時は、マーリアやアスティアが羨ましかった。自分の感情を素直に出せたのだから。喜怒哀楽が人間の感情だとするならば、あの頃の自分は、哀と楽が希薄だったように思える。喜にしてもどれだけあったのだろう。懐かしい友との再会にしても、心底喜んでいた訳でもない。何が楽しくてあの頃は生きていられたのだろう。ただ復讐しかなくて…。そこまで思っていたエルミアは、皮肉的な自嘲を浮かべていた。

「どうした? フィン。」
「え…、な、何でもないけど…。」
「…はん…何でもない、ねぇ。よく言うぜ…そんな顔して。」

 セイクリッドは白々しいほどの大きな溜息をついたかと思うと、グイとエルミアの肩を前に向けて後ろからきつく抱きすくめていた。ドキンと大きく心臓が高鳴るエルミア。

「な、何?」
「…座るぞ。」

 セイクリッドは、半ば強引に彼女を後ろから抱きしめたまま、どっかりと大地に座っていた。エルミアは、ほぼ引寄せられるかのようにセイクリッドの膝の上に座らされた。

「セ、セイル…!」

 驚きのあまり彼の膝と腕の中から逃れようと、真っ赤になりながら抵抗しているエルミア。そんな彼女を離すまいと、背後からのセイクリッドの抱きしめる力が少し強くなる。

「や、やだ。離して。」
「いやだね。ここで離したら、お前は逃げちまうだろうが。…今は何もするつもりはないから、光の絶景が終わるまでは、このままでいてくれ…。」
「きゃうっ!」

 再び耳元で囁かれ、思わずエルミアは、真っ赤になって首と肩を縮めて声を上げていた。クックッとセイクリッドの喉が鳴っている。ちょうどエルミアの頭の天辺でセイクリッドの喉があるのである。エルミアとしては、あまりに気持ちのいいものではない。

「セイル…あの、それって…あたしへの…意地悪?」
「はん? 何が?」
「その…声…。」
「その声って…。これは元々俺の声だがそれが何か? ってかそれで意地悪ってのも心外だぜ?」
「そ、そうじゃなくてっ!」

 勢いよく後ろを振り返ってセイクリッドに文句を言おうとしていたエルミアだったが、互いの視線が絡み合った後、絶句してしまい俯いてしまった。セイクリッドの自分を見つめる瞳が、いつもの射るような、挑むような視線ではなく、いとおしむ様な包み込むような眼差しだったのだ。

「フ…そうじゃなくて…感じるから耳元で囁くなって、言いたいんだろう、お前は。」
「…や、な…!」

 セイクリッドの言葉に真っ赤になり、口をパクパクさせているエルミア。エルミアの慌てる姿を見ながら、セイクリッドはニヤリと笑っていた。

「フィンには性格悪いって言われるがな、わざとやってるし、やめる気はさらさらない。」
「な、んでっ。」

 セイクリッドは悪びれる事なくツラッと言い切っていた。ふるふるとエルミアの肩が微かに揺れていた。

「…へぇ、お前が『何故』と聞くか…。そりゃ卑怯じゃねぇか。」
「卑怯って、穏やかじゃないわね…どうしてそんな言い方するのよ…。」

 セイクリッドの言葉にエルミアの肩が小さく震えていた。セイクリッドも深い溜息をついたかと思うと再びエルミアを後ろから抱きすくめる腕に力を込めていた。

「…あのなぁ、この世界に来てからお前が俺に隠し事ばかりしてるんだぜ? お前の手の内を明かさないで俺の事を攻めるってのもお門違いじゃねぇか。」
「そんな事してないわよ。あたし…。」
「…事ある毎に何でもないって言ってる奴が、隠し事をしていないと言えるのか?」
「ひ、人の事言えないわよ、セイルだって…いつもあたしに隠し事してるじゃない。何も言わずに一人で何でも背負おうとしてるじゃない。」

 決着のつかない言い合いに、2人は溜息をついた後沈黙となってしまった。その間にも大地から光霊や精霊(しょうりょう)達の光が、ふわふわと浮かび上がっては瞬いていた。あたりも少しずつ薔薇色から薄紫色に変わっていく。それは夜に向かうにつれ、光が綺麗に浮かび上がってくるのだ。それは本当に見事なものであった。エルミアも思わず見入っている。

「う、わぁ……!」
「…綺麗だろう、これが光の絶景もしくはライベル・トゥーカと呼ばれる光の演舞。夕刻からルーグの刻にかけての狭間で、ムーでは月に1〜2度だけ見られた現象だよ。」
「ライベル・トゥーカって…どう言う意味なの? すごく綺麗な響きだけど…。」
「ん、あぁ…。その…。」

 エルミアの質問にセイクリッドが言いにくそうにしている。

「セイル?」

 エルミアはセイルの方を振り返り、首を傾げながら教えてほしいと促している。ふぅっと息を吐き出したセイクリッドは肩を竦めて話し出した。

「まぁ隠してもしょうがねぇな…簡単に言っちまうと『逢瀬と野合』ってところかな…。」
「えっと…? 逢瀬って言うのは判るけれど…野合って…?」
「…知りたいか?」

 エルミアは意味が判らずにきょとんとしていた。ただ判ったのは、セイクリッドが言った『知りたいか』と言う言葉に何か意味が含まれているだろうと言う事。果たして簡単に「うん」と言って良いのかどうなのか悩んでいた。
セイクリッドは、そんなエルミアをじっと見つめていた。

「そう言や…お前さっきファグルから何かを貰っていたな。」
「あ、う、うん。これを貰ったの。」

 話題が変わって少しほっとしたエルミアは、サラーナのポケットにいれていた木の実を出してセイクリッドに見せていた。

「これ、なんの実なのかよく判らないの。ファグルは、貴方かあたしで食べなさいって言ってたんだけど、セイルなら判るかな。」
「げっ!?」

 エルミアから木の実を見せられた途端、青ざめた顔をするセイクリッド。エルミアは彼のその反応に心配そうな顔をしていた。

「あ、あのもしかして…貰っちゃダメな物だった…? 食べちゃ、いけないもの…?」

 エルミアの質問にセイクリッドは、頭を抱えたまま小さい声で返答しだした。

「…よくもまぁ…こんなものを簡単にくれたもんだな。それともお前が、ファグルと実際に逢う最後のヒトだったから奮発してくれたのか…。」
「え、え? な、何なの、これ…。」
「…俺達の世界では『エリクシエル』だが、そうだな、フィンの世界で言やぁ…『ネクタル』って言えば判るか?」
「え…って『神々の果物』!? う、うそ! そんなのが本当にあったの!? だってネクタルって不老不死の代名詞で、常若の実でおとぎ話の中にしか出てこないものじゃない!」
「はは、まぁそうだろうが、これがこの世の中に在ったんだよ。不老不死ってのは、後から作られた権力者達のでまかせだがな。本当の効用は、実が数年間だけ超常力(ちから)を増幅するもので、種が精力剤になる。その香りは、獰猛な動物から身を守ってくれる。それでもラムリアの人間にしてみたら、喉から手が出るほど欲しい代物かも知れねぇな。」

 ぽかんと口を開けて自分の手の中にある木の実をまじまじと見つめているエルミア。どうしようかとセイクリッドの顔とその木の実を代わる代わるに見ている。セイクリッドは小さく溜息をついていた。

「…多分その実、ラムリアには持って帰れねぇぞ。今のうちに食うなり捨てるなりしないとな。」
「え、と。セイルは確か、帰るまで貴方の超常力は発動されないって言ってたわよね。」
「あ? あぁ、そう言ったが…。」
「これの種って捨ててもいいかな…。」
「…そりゃ、お前の好きにすれば良いだろう。ただ、それの種は…っておい!」

 セイクリッドの話の途中で、エルミアは手の中にあった木の実を自分の剣で綺麗に半分に割っていた。肝心の種を探していたが、実の中には見つからなかった。きょとんとしながら、「ま。いいか」と呟いている。そして、半分は自分の口の中にいれ、もう半分はセイルの口に入れていた。柔らかでさわやかな果汁が、口の中を満たしている。

「おいしい!」
「おいしいじゃねぇぞ。こんのボケ! 人の話を最後まで聞きもしないで!」
「は? どうかしたの?」

 エルミアは既にネクタル(エリクシエル)を完全に飲み込んでおり、後の祭りであった。エルミアの言葉にがっくりと肩を落とすセイクリッド。

「知らねぇぞ。種をすべて飲み込みやがって…。」
「え? だって種なんてなかったじゃない。」
「だ〜か〜ら! 人の話は最後まで聞けって言ったんだよ。あれの種ってのは特殊でな、他の果物でいやぁ皮が種なんだよ。種を取りたかったら、皮を捨てるべきだったんだ。」
「そ、そうなの? あのね…ちなみに種を丸ごと飲み込んじゃったら、どうなる、の? 確か、精力剤って…言ってたわよね…。」
「……食う前に聞けよ……。」
「だ、だって、もう、食べちゃったし…。それを言うならセイルだって、飲み込んだでしょ。」
「……。俺は食い慣れてるからな。自分でセーブ出来るが…。」

 頭を抱えたまま、はぁっと短い溜息をつくセイクリッド。そんなセイクリッドに不安な顔を隠しきれないエルミア。セイクリッドは、そんなエルミアの顔を指差した。

「…熱くなってきたら、水の中に入るしかねぇな。」
「は? それだけで…いい、の?」
「……精力剤の効力が切れるまでな。」
「えと、どのぐらいで効力って切れるの?」
「丸1日。」
「えぇ!? そんなに?」
「そんなにじゃねぇだろう。自分で招いた結果だろうが!」
「そ、そうだけど…これって中和剤とかは…。」
「ない。」

 セイクリッドの不機嫌そうな言葉に強かにショックを受けるエルミア。項垂れていると、そんな2人の足元から一斉に光が舞い上がった。びっくりして大地から天を見上げるエルミア。
そのあまりの美しさに一瞬だけさっきの事を忘れていた。セイクリッドも眼を細めてその光の行く先を見つめていた。既に夜の帳が下りてきていた。

「…チッ…。もたもたしている間に時間って訳か…。」

 セイクリッドはそう舌打ちして呟くと、エルミアの腕を掴んでいた。光の演舞を見つめていたエルミアの瞳からは、セイクリッドが言っていたように涙が浮かんでいた。セイクリッドにいきなり腕を掴まれてハッと我に返るエルミア。

「時間だ。戻るぞ。」
「あ、う、うん。」

 エルミアがセイクリッドに抱きつくと、ここに来た時と同じように涼やかな鈴の音色が響き渡る。それに伴って2人の周りが光に包まれ、浮いているような感覚とすごい勢いで跳んでいるような感覚が、エルミアを襲っていた。無理を言ってせっかく過去のラトゼラールに連れて来てもらったのに、輪の手がかりを掴むどころか、最後はセイクリッドを不機嫌にさせてしまったと言う事が、エルミアの心に大きく()し掛かっていた。

 ぎゅっと瞼を閉じた瞬間、空間が閉じられるように感じた。そしてゆっくりと瞼を開くとそこは、海の中にあるセイクリッドの居城であった。寝室の前の廊下。ほっと溜息をついたエルミア。セイクリッドから離れた次の瞬間であった。
エルミアの足がよろめき、周りがぐるぐると回りだしていた。

「あっ…?」
「え? フィン!」

 間一髪でセイクリッドの腕に支えられ、何とか転ぶのを免れたエルミアであったが、その顔は真っ青であった。

「気持ち、悪い…。あたしも周りも…グルグル、回って…。」
「え? 空間転移の後遺症かも知れないな。ベッドまで歩けるか?」

 セイクリッドがエルミアに声をかけているが、それに返事が出来ない。口を開けば吐き出しそうになる。セイクリッドは、そんなエルミアを察知し、ヒョイとエルミアを軽々と抱き上げる。彼の左手をエルミアの左脇に添えて、右手で彼女の両膝の下に通す。世に言うお姫様抱っこである。恥ずかしくてじたばたしているエルミア。
それが尚更、具合悪さに加速をつけていた。

「や、セイル…。」
「苦しいくせに喋るな、動くな。…全身の力を抜いて俺にもたれかかってろ。」

 ここに帰ってくる直前から厳しい顔つきのセイクリッドを見ると、何も言えなくなり小さく俯いてセイクリッドの顔を見ないようにしているエルミア。

「…おいフィン。全身の力を抜けって言ってるだろうが。そんなに強張るな。」

 セイクリッドの言葉にびくんと身体が硬直するのが判る。別に硬直したい訳ではない。出来るなら自分も楽な姿勢をとりたいのだ。けれど、身体が言う事を利かない。余りにも情けなくなり、ジワッとエルミアの瞳に涙が浮かぶ。セイクリッドの歩みが止まり深い溜息が聞こえる。

「…悪かった。こんな言い方をして…。頼むからそれ以上、変に力を入れるな。力を入れる事で余計に具合悪くなるぞ。」

 セイクリッドの言葉にポロポロと大粒の涙をこぼすエルミア。

「だから、何でそこで泣く…。」
「だって、セイルが、ずっとイライラしていて…あたしがそうさせたから…。」
「いや…それはお前の責任じゃないだろうが。それより、大丈夫か?」
「……頭、痛い。頭の中で…大きな鐘が鳴り響いているみたい…。周りも、グルグル回ってる。気持ち、悪い…。」
「ふ、ん、まるで…酒に酔った奴のセリフだな…。」

 セイクリッドの言葉にエルミアは今度はクスクス笑い出す。そんなエルミアにセイクリッドの眉間にしわが寄り、怪訝な表情をしていた。

「どうして、そんな事言うの? お酒なんか飲んでないのに身体熱い…。水に入らなきゃ、ダメ…? 身体ふやけるからそんなに長い間、水に浸かりたくない…。」
「…水に入るより、とにかく休むぞ。」
「いやぁ。このままが良い。どこにも行きたくない、休みたくない…。」

 エルミアは、そんな我侭を言いながら、セイクリッドの首にぎゅっと抱きついていた。彼女の体温がいつもより高い事に気がついた。普段なら自分が、喜ぶようなそんなセリフをあっけらかんと言えるようなエルミアではない。まさかこれが、エルミアにとってのエリクシエルの効果なのか?

 だが、自分の知ってる効用とはまるで違うもので、エルミアの今の態度は、拗ねたり、突然笑い出したり、絡んで来たりと、エリクシエルの効果と言うよりは、酒に酔った者のそれに類似している。何度目かの溜息がセイクリッドから漏れる。

「…何寝ぼけた事を言ってやがる。それとも水の中に叩き込まれたいのか。」
「…あぁん、セイルの馬鹿、人でなし……気持ち、悪い…吐きそう……。」
「……なら話すなよ、このボケが…。」

 エルミアの無茶苦茶な言葉に頭を抱えたくなるセイクリッド。そのままドアを開け寝室に入っていく。ふわりとエルミアの身体がセイクリッドから離され、ベッドに下ろされようとしていた。

「いやだって…降りたくないって言ったでしょぉ!」

 エルミアは慌ててセイクリッドの首を両手で抱きしめていた。その咄嗟の出来事にセイクリッドも慌ててしまう。

「お、おい、フィン! バランスが崩れる!」
「知ーらないもん。いやだって言ったのに、聞いてくれない、セイルが、悪いのよ。」

 とうとうセイクリッドもエルミアに引っ張られる形で、彼女の上に崩れてしまう。エルミアはそんなセイクリッドに嬉しそうにクスクスと笑っていた。

「フィン、お前、完全にエリクシエルのせいで酔っ払ってるな?」
「違うわよぉ。だって、セイル、押し倒されるより押し倒す方が、好き、なんだよね。」
「良くもまぁ、そんな事覚えていたよな…生憎と、この体制も好きじゃねぇぞ。俺が押し倒した形じゃねぇだろう。お前に引きずり込まれたんだぜ?」
「…やっぱり、セイルは、あたしが嫌いなんだ…。そりゃ判っていたけど…。セイル、冷たい!」
「はぁ? …って何をどう取ったら、そんな話にぶっ飛ぶんだよ!」

 まるで酔っているかのように次々に変わるエルミアの言葉や態度に、さしものセイクリッドも頭を抱えて唸るしかなかった。くすくすと笑ったかと思えば、瞳を潤ませたり、ふて腐れた顔をする。新鮮では在るものの、まともな話が全く出来ない。再びセイクリッドは、大きな溜息を吐くしかなかった。

「あたしの事…嫌いだから、手を出そうとしないんでしょ。セイルのばかぁ…。」
「あ、のなぁ…!」

 エルミアの言葉に思わず力いっぱい起き上がろうとするセイクリッド。エルミアはそんな彼の首をぎゅっと抱きしめて、起き上がるのを阻止していた。普段のエルミアならば、彼もこんなに苦労する事はない。逆に彼女の方が何とかして、こんな状況から逃れようとするだろう。だが今は普段とは全く違うのだ。

「フィン、いい加減に離せ。苦しいだろうが。」
「…いや…今セイルを離したら、もうあたしのところに戻って来ない…。ここにいて…。」

 エルミアの哀願に心を打たれるものはあったが、何よりも首をぎゅっと抱きしめられたままでは、話をする事も何も出来ない上に自分の動きすらもままならない。大きく息を吸い込んだ後、セイクリッドはいつもより低い声でエルミアに声をかける。

「…いい加減にその手を離せ。」

 地を這うように低く、どすの利いたセイクリッドの声にエルミアの全身がビクッと硬直する。セイクリッドはその隙に首を上げ、エルミアの両肩のそばに手を置いて、自分の体勢を治していた。戸惑いながらも再びセイクリッドの首を抱きしめようとするエルミアに首をよけるセイクリッド。その事に傷ついた顔をするエルミア。

「…首を抱きしめるのはやめろ。動けないし苦しいんだぜ。そんな事しなくたって、俺はどこにも行かねぇ、お前の傍にいるだろう? 何がそんなに心配なんだ。」

 そう言いながら、エルミアの額や頬、唇に軽くキスを落とすと、エルミアから小さな安堵の声が漏れる。と、同時にエルミアの瞳から涙が溢れ出ていた。その涙を指や唇でふき取るセイクリッド。

「…安心しろ。俺がお前の事を嫌うなんて、絶対にありえないから…。」
「…うそだぁ…。」
「嘘じゃねぇよ…って言っても、お前が俺の事を信じてくれてないからな…。空々しい言葉にしか聞こえない、か…。参ったな…。」

 ポロポロと涙を零しながらセイクリッドの胸にしがみつくエルミア。セイクリッドは、溜息を吐きながらエルミアの額にキスを落とし、右手で彼女の艶やかな銀髪を撫でている。
彼の右手が、エルミアの髪を撫でるごとに時々彼女の唇や頬、耳たぶにも触れていく。そんなセイクリッドの手にエルミアの手が添えられる。

「…どうした?」

 エルミアの涙にぬれた漆黒の瞳が、じっとセイクリッドを見つめている。セイクリッドもまた視線を逸らす事無く、エルミアを見つめていた。互いに見詰め合っていると、ふわりとエルミアが微かに微笑んだ。

「…昔ね…。」
「ん?」
「貴方に似ている男性(ひと)を…どうしようもなく…愛しちゃったの…。」
「なん、だと!?」

 突然のエルミアの告白にセイクリッドの方が、穏やかではいられなかった。本当に地を這うようなほどの低い声を出し、撫でていた彼女の髪の毛をギュッと握り締め、全身を戦慄(わなな)かせて殺気すら放っている。エルミアはそんなセイクリッドの変化に、気が付いているのかいないのか判らないが、気にせず言葉を続けていた。

「でもね…その人には、あたしの思い…全く届かなくて、その人、あたしを殺してもくれなかった…。」
「…殺されなくて良かったんじゃねぇのか。」
「違う…その人にとっては、あたしは…どうでも良い存在、だったの…。」
「え?」
「だってね…、その人には既に決められた女性が、いたから…。」
「はぁっ!? って、何の冗談だ、それ!」

 セイクリッドは思わず大きな声を出してしまった。自分が知る限り、今日までの時間でエルミアにそんな男がいたとは、寝耳に水の出来事である。絶対にありえないはずなのだ。エルミアが本気で惚れた男などいるはずがない。だが、どこかで拭い切れない違和感を感じていた事も確かだった。

「ううん、本当の話だよ…。せめて…あの人の手で、葬られていたら…幸せ、だったのにね。」
「フィン?」
「…二回目も…同じような人を愛したの。あたしだけの太陽で、全てだったのに、その思いは…報われる事、なかった。もう、ね、どうでも良かったの…。だから…受け入れちゃった…。だって…その人を思ってても、辛いだけ…なんだもの。」

 エルミアの話を聞くうちにセイクリッドの中で悪寒のようなものが、ゆっくり鎌首を持ち上げていた。その違和感と言い、気持ちが逆撫でされるような言葉に彼の眉間に無数のしわが寄っていた。

(何だ…何がこんなに気になる…。俺が知っているこいつの話じゃない事は確かだ…。昔…って事は、まさか…こいつの前世の事か? それにしても何だってこんないきなり話が飛躍する?)

 セイクリッドが考え事をしている間も、エルミアは誰言う訳でもなく呟くかのように、話を続けていた。

「その人に…まとわりついていた、女を…死に追いやったの…。その時だけは、すーっと、目の前が晴れたの…。だーれもあたしを見ようとしない…、あたしに触れようとしない…。だって…あたし、汚れているものね…血で…行為で…。」

 ゾクン!
 それは、セイクリッドを突き抜ける突然の悪夢。遥か昔からそんな気持ちなど、どこかに置き忘れたであろう彼の初めての恐怖―だったのかもしれない。その腕の中にいるはずのエルミアの容姿が、(なま)めかしく変貌していく。濡れた紅い唇から嘲笑が漏れる。


Novel

トップ   新規 一覧 単語検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS