Novel

光と風の環 <始まりの刻>

著者:真悠
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 苦悶の表情を浮かべて、セイルはベッドに倒れこんでしまった。あたしは、ただ傍にいる事しか出来ない。聖霊からセーナを借りるって、こんなに苦しむものなの?
彼の顔に浮かんでいる脂汗。それだけでも何とかしようと、拭くものかタオルを探して辺りを見回していたけれど、見つからなくて自分の着ているサラーナの端をビリッと破っていた。

「セイル…。」

 彼の顔に浮かんでいる脂汗を拭き取りながら、早くこの苦しさが取れるようにと祈っていた。本当に聖霊達に言われたように、あたしはなんてちっぽけなのかしら。自分が一番大事に思う彼の苦しみすら取り去る事ができないなんて。もどかしくて、苦しくて、悲しかった。

 何度目かに彼の脂汗を拭っていると、あたしの手をグッと捕まえるセイルの指先。

「セイル?」

 あたしの声に瞼が開き、射る様な深いマリンブルーの瞳が、あたしを見つめていた。まるで始めて物を見るかのような戸惑いが、彼の瞳に映しだされていた。一瞬セイルの眉間に皺が寄る。ホーっと息を吐き出したかと思うとポツンと呟いた。

「…フィン…?」

 あたしの名前を呼んでくれた声は、とても優しくて思いの全てを込めてくれてるかのような…そんな感じで呼ばれて、あたしの心臓が早鐘を打つように早くなり苦しくなってしまう。
でも、出来るだけそんな思いを彼に悟られないように、気持ちを落ち着けてセイルに再び言葉をかけた。

「大丈夫? 少し落ち着いた?」

 あたしの言葉にセイルの唇に苦笑が浮かぶ。

「そうか…俺、ラーディスのセーナを受けて…。」

 そこまで言って、我に返ったのかセイルは、ベッドから勢い良く身体を起こしていた。あたしは慌てて、そんなセイルを押し留める。

「ちょ、ちょっとセイル。ダメよ、さっきまで、貴方は全く動けない状態だったんだから! もう少し横になっていないと。」
「良いって、もう大丈夫だ。」
「ダメ!」

 あたしの制止を振りほどいて、起き上がろうとするセイルを正面から押さえ込んでしまい、セイルもまた咄嗟のあたしの行動に驚いて、なすがままにベッドに倒れこむ。
あたしもまた、バランスを崩してしまい、セイルのいるベッドの上に倒れこんでいた。

「…いってぇ…。フィン、お前なぁ、馬鹿力出しやがって…。」

 セイルの吐息交じりの声が、あたしの耳元のすぐ傍で聞こえる。ドキンと大きく胸が高鳴ってしまっていた。えっと…あたし今、どんな格好でここにいる訳? 一瞬自分がどんな風な体勢をとっているのか想像もつかなかった。
あたしの右側の方で、何かが動き、それがあたしの髪の毛に触れている。誰かの熱い息があたしの耳をくすぐっていた。自分の鼓動が早くなるのがわかる。

 ちょ、ちょっと待って。こんなシチュエーション…あたし、どこかで経験していなかった? 相手は…セイルではないけれど、あの時もこんな感じだったような…。まさか…ね。
ゴクリと息を飲み込み、あたしの身体が硬直していた。

「ふ…ん? 俺としちゃ…押し倒されるより、押し倒す方が好きなんだがな…。まぁ、こう言うのも悪くないか…。」

 ククッと押し殺したような笑いすらもすぐ傍で感じられていた。それに伴ってあたしが下に敷いているものが、押し殺した笑いや彼の言葉と共に微かに動いていた。そしてあたしのものじゃない心臓の音が、規則正しく聞こえる。

 そう、あたしは勢いあまってセイルの身体の上に倒れこんでいた。アレスナの時と同じだ! それが判った途端、顔から火が出るほど真っ赤になってしまう。ただアレスナの時と違うのは、思わず起き上がろうとしたあたしの背中を、彼の腕がそれを許さずに押さえ込むように抱きしめてくる事だった。

「セ…セイル、やだ、ちょっと放してよ。」
「嫌だって言ったら、どうする?」

 まるであたしをからかうかのように、そして子供が駄々を()ねているようなセイルの言葉に、思わず自由の利く右手で、彼の頭をバチンと軽く叩きつけていた。
セイルはそれに驚いたのか、あたしを抱きしめていた腕が緩み、あたしはその隙に身体を起こしてベッドから離れた。真っ赤になっている顔をセイルに見せたくなかったから。

「…ったく……冷たいのな。」

 セイルが溜息混じりに小さく呟く。振り返ると、セイルはゆっくりと身体を起こしベッドの上に座っていた。

「あ、あのねぇ、冷たいも何もないでしょ。なかなか気が付かないから心配したのよ。なのにそんな軽口言うなんて…。」

 戸惑いながらも文句を言うあたしに、セイルがクスクス笑っている。

「あぁ、悪かった。つい…な。」

 ついって、出来心であんな事をして、からかったとでも言いたいのかしら。セイルの言葉に眩暈がしたけれど、軽口を叩けるという事は、大分身体が楽になったって事なんだろうか。

「セイル…。」
「ん? 何だ?」
「もう……辛くないの? 本当に…大丈夫なの?」
「あぁ…おかげでね。ラーディスからのセーナも大分馴染んだようだぜ。」

 セイルはそう言うと、身体を動かしてあたしに見せている。確かに蒼かった顔も、元の顔色に戻っている。荒かった息遣いも、さっきとは比べ物にならないほど穏かになっているけれど…。

「それって本当に本当なの?」
「って…随分疑り深いな。俺の事がそんなに信用出来ないのか?」

 セイルの質問にあたしは躊躇(ためら)う事無く頷いていた。あたしのそんな姿にセイルが大きな溜息を吐いた後、小さく唸って頭を抱えていた。

「あのなぁ…。」
「だって、貴方って何があってもなんでもない顔するのが得意じゃない。さっきだって…そうだわ。セイルは、絶対に自分から辛いなんて言う様な人じゃないでしょ。何時だって…なんにも教えてくれないで、全部貴方一人で抱え込んでいるじゃない…。信用出来ないのかって、あたしの方が言いたいわよ。」

 俯きながら言ったから、セイルがどんな顔をして聞いていたかなんて、見ていないから判らない。そして、自分の言った言葉にハッと気が付いたあたし。
何を言っているんだろう。彼があたしを信用出来ない理由なんて、判り切ってるじゃない。

「ご、ごめんなさい…。あたし…なんだか変な事を言っちゃったわね。」
「フィン。」

 セイルのあたしを呼ぶ声に、不意に顔を上げるとセイルは両手で、あたしの頬をパシンと挟み込むように軽く叩いていた。
勿論、それはそんなに痛い訳ではなかった。ただ、突然の事に驚いただけ。

「……熱い湯にでも浸かって来い。そのボケた頭をすっきりさせろ。…話はそれからだ。」
「は?」

 セイルはそう言うと、ベッドから降りたかと思うとあたしの手をグイと強引に引っ張って、その部屋の奥にある扉に向かっていく。

「セ…セイル、どこに行くの?」

 あたしの言葉に無言のまま、セイルはその扉を開けた。一面真っ白な煙が、その部屋の中を覆っていた。それが、暖かい湯気だと判るのに少しの時間を要する事になった。

「あ、あの?」

 戸惑っているあたしを余所にセイルは、一組のサラーナをあたしに放り投げてきた。慌ててそれを受け止めたけど、これは何…? どうして?

「着替えだよ。俺のせいでお前のサラーナを破らせちまったからな。」
「え、いえ、あの…ここは何?」
「だから、先に言っただろうが。熱い湯に浸かって来いって。覗く事はしないし安心して、後は勝手に使え。」

 セイルはそう言うと、あたしを一人その部屋の中に残して、扉を乱暴に閉めていた。呆然としていたあたしも、ようやくその部屋がお風呂のある部屋なんだって理解したけれど……その広さは、他のお風呂より並み外れていた。
それに、外界から隔離されていると言われたセイルの城に、どうやってこの広さのお風呂を確保したの? それにこれだけの量のお湯をどうやって沸かしているの?

 あたしが知っているお風呂は、宿屋にあるような少し広めの部屋で、大きな浴槽が置かれているものであって、こんなに広すぎるお風呂なんて、今まで見た事なかった。
シャーラト城のお風呂でさえ、こんなに広くはなかったわ。

 それにここにはセイル一人だけなのに、これほどの広さのお風呂なんて必要ないでしょ? 本当に…贅沢以外の何者でもないじゃない。
あたしは暫くの間、呆然として動けなかった。けれど、あたしを(いざな)うような暖かい湯気の香りに、やっと頭が回転し始めて、お風呂に入るべく、そろそろと準備をしていた。


 風呂のある扉の向こう側には、セイクリッドが不機嫌そうな顔をしながら、足を組んでテーブルには肘をつけて、グラスに入った液体を飲んでいた。

【まっこと…不器用な奴よ。】

 不意に聞こえてきた誰かの声に、セイクリッドの顔がますます不機嫌になる。それを知りながら、嘲る様に声が続く。

【遥か()の刻には、右に出るものがいなかった戦士の長(ウェヌルド・アグリット)も、たった一人の娘に翻弄されるとはな。】
「……うるせぇ。」

 不貞腐れながらも声に返答するセイクリッド。勿論その会話は、扉の向こうのエルミアには、聞かれる心配もないが、声を出来る限り小さくしている。その声の主は、彼の反応にクスクスと嗤っていた。

【…何故あの娘と契ろうとせぬ? カザマへの遠慮か? …いや、それはありえまい。女と契る事に関しては、そなたなら…容易いであろうに。詰めが甘いのは何故であろうな。】

 その声に口に含んだグラスの中の液体を驚きの余りブーッと吐き出してしまった。

「て…てめぇら、いい加減にしろよ!」

 舌打ちしながら、口の周りを拭っているセイクリッド。その言葉の端には、多少の慌てた姿があった。そんな彼を嘲るかのように更に言葉は続く。

【フ…そなたは、良くそのように周囲の者に誤解されておったな。その実、創世の娘以外は、そなたの一途な気持ちなど見えてはおらぬし、何よりもそなたもそれを他者には、見せなかったであろう。】
「……。」

 否定とも肯定とも取れない態度で、不機嫌になりながらそっぽを向く。ダンと力任せにテーブルにグラスを置くとセイクリッドは、吐き捨てるように言っていた。

「…あぁ、どうせ、てめぇらには俺のやってる事が、滑稽に見えるだろうよ。ふん…俺の中の感情がどうにもならない事ぐらい、俺だって…よく判ってるよ。」
【だから…聞いておる。何故(なにゆえ)あの娘に手を出さないのかと…。】
【それで、回避できるものの方が多数あると言うのに。不器用な奴よ。】
「…聖霊であるお前らには…理解出来ない事だろうがな…。」

 彼はそう言うと諦めたようにその理由を話し始めた。


 一方エルミアは、扉の外でセイクリッドと他の者のそんな会話がなされている事など全く気が付かずに、ゆったりとその身体を湯に浸からせていた。
暖かなお湯の中で、身体に強張ったような緊張感が、ゆっくりと解けて伸びていく。
薬草とはまた違った、甘いような柔らかい湯気の香りに包まれて、まどろんでいた。

 ザプ…ザプ。

 ふと気が付くと、自分以外の何者かが、エルミアのいる浴槽に近付いてきていた。

「え? だ、誰? ま、まさかセイルなの…?」

 その音が聞こえるとあたしは思わず、自分の身体を腕で隠していた。あたしがお風呂に入っているのを判っていて、どうして入ってくるの?
音があたしのいる浴槽に近付いてくる。思わず身体を隠すのにその湯船の中に深く浸かっていた。

「ここにいたのか…。」

 その声は紛れもなくセイルだった。ドキンとあたしの心臓が跳ね上がる。

「の、覗かないって言ってたじゃない。セイルの馬鹿!」

 余りの酷い仕打ちに、あたしは思わずセイルにお湯をかけていた。けれど、セイルの周りに張り巡らされているバリアが、そのお湯を弾き飛ばしていた。
ゾクリ…お湯に浸かっているはずなのに、背筋に悪寒が走る。何だろう、この感じ。

「…フ…そういう所は相変わらずだ。」

 セイルはそう言うと、あたしの入っている浴槽にいきなり入って来たかと思うと、あたしの腕をぐいと力一杯引き寄せていた。

「い、いや。何するのよ。」
「決まっている…。お前を俺のものにする。」
「え…。」

 セイルの唇があたしの唇に強引に重なる。どうして? こんなに強引なキスの仕方、それに何かが違う。思わず身体をよじって、セイルの頬を引っ叩いていた。
あたしに叩かれたセイルは、左頬を自分の右手で触れていた。その冷たい眼差しは、今までに見た事もないものだった。背筋にゾクリと冷たいものが走る。この感覚は…。まさか。
ううん、そんなはずはない。ここはセイルの城なのよ。外界から遮断されているはず。

「このじゃじゃ馬が…これは、しっかり調教しなければな。」
「貴方…誰?」

 あたしの質問にセイルの顔が、ますます冷たいものになっていく。

「誰だと? おかしな事を言う。フィン、お前の一番大事な男だろう。」

 ゾクッ……。違う…絶対に違う。本当のセイルなら、彼にその名を呼ばれたなら、あたしの心はもっと高揚するはずだ。それにあたしを呼ぶ名前にも、いつもの彼の響きがないし、何よりもこの眼差しは、あたしの好きな彼の眼差しじゃない。

 そう思っていた矢先、あたしの身体はそいつに押し倒されていた。まずい、あたしは今全裸なんだ。隠すものが何もない。それに、こいつに触れられるたびに、背筋に悪寒が走る。
これは…この感覚には、覚えがある。ま、まさか!?

「い、いや! 違う、貴方セイルじゃない!」
「…クク…気が付かなければ、最後の一線を越えるまでは、そなたが愛しいと思う男の姿のままでいてやったものを…。」

 その男はそう言うと、あたしの身体を触り始めていた。いやだ! こんなの、こんな所でこんな奴のものになってしまうなんて、絶対にいや!
激しく抵抗しているつもりが、その動きの全てを封じられる。そうだ…これはあの悪魔(フィブネス)の仕業。背筋に走った悪寒が、あたしに危険を知らせていたのに、どうしてすぐに逃げ出さなかったのだろう。

「今更、抗うでない。そなたの身体とて、この我にのみ反応しているのだ。あの時の続きをこの場でするだけの事…。我を復活させるため、そして…この星の全てを飲み込む、暗黒の全うなる美しき姿に戻してやろうぞ。」
「いやぁぁぁぁ!」

 どんなに泣いても叫んでも、あたしの身体はピクリとも動かない。何も出来ず、このままになってしまうの? いや…だ、こいつの言いなりになるのだけは……もう嫌……。

(……この男の言いなりになりたい。)
嫌よ、この悪魔の手に堕ちる事だけは、どんな肉体的快楽を与えられようと、絶対に嫌。

(血が私を呼んでいる、私が血で染まる世界を求めている。)
知らない。そんなものいらない。例え聞こえたとしても抗うわ。

(光など初めから全て、必要ないもの。この世界に相応しいのは、暗黒と血の支配と破壊だけ。)
光がなければ闇も存在しないわ。あるのは虚無だけよ。

(快楽が全て。悲痛に満ちた声を聞くとゾクゾクと身震いする。それが快感になる。)
辛いだけよ。自分を悪魔に仕立て上げて、何が嬉しいって言うのよ。

(一人の人間に縛られる事なく、全ての生きとし生ける人間は、自分の思いのまま。情事も全ての栄光も。その欲さえ。)
違う…違う、あたしが本当に欲しいのはたった一つだけ! セイル、彼だけよ。それ以外はどれだけのものがあったってあたしには意味がないわ。

(人を信ずれば、いずれ自分は裏切られる。ならばその前に全てを破壊しつくせば、その痛みとてなくなる。その求める者とて、いずれは自分の前から消え行く運命(さだめ)。)
…えぇ、それは判っている。でもだからと言って、現在(いま)の全てを諦めてしまうのはもっとイヤ! 運命だというならそれを変えるように一つずつ努力していくわ。確定しているものなんかこの世の中にはないのだから。


 何かの意思に反応していたあたしの周りで、凄まじい音が放たれた。不意に身体が軽くなる。戒めが解けたんだ。何故か判らないけれど、咄嗟にそう思っていた。
でも、状況はまったく好転してはいなかった。弾き飛ばされた悪魔が、セイルに化けていた姿から元の姿に戻っていく。再び背筋にゾクリと悪寒が走る。

『フフフ…あやつを呼び求めるか? それも面白かろう…。あやつの目の前でそなたを我が物にするも良し、そなたの目の前で超常力(ちから)のないあやつの身体を引き裂いても良し。どちらでも我にとっては、有利であるがな……。』

 どう転んでもこの悪魔の思う通りにしかならないの? 知らず知らずのうちにあたしは唇を強く噛んでいた。悪魔が再びあたしに近寄ってくる。一歩悪魔が前に出るたびに、あたしの身体は一歩後退する。
今再び、こいつに捕まってしまったら…あたしは、正気を保てなくなってしまう…。捉えられてどこまでも堕ちていってしまう。そうなったら…またあの悪夢を繰り返す事になる。

『クク…もう逃げ場はないぞ。さあ…あやつを呼ぶがいい。彼の刻からの果てしない屈辱、それを今あやつに返す時ぞ。月と星、更には運命すらも我が味方をしているのだからな。』

 …イヤよ、セイルをこの場に呼ぶのも、あたしが悪魔の手に堕ちるのも…。それならば違う道を選ぶわ。

『…フ、ククク、この場で己の命を絶とうと言うのか? それも面白き趣向よ。労せずとも我が手に堕ちて来ると言うのか。』

 悪魔の言葉に目を見開いて驚いてしまった。悪魔はゾクリとする笑みを浮かべていた。あたしの行動は全てこいつに読まれていると言う事なの?

「人が黙ってりゃ、いい気になりやがって……誰が、そいつにそんな真似させるかよ。」

 突然響き渡ったセイルの声。驚きの余りあたしは周りを見渡していた。そして、悪魔にとっても意表をつくものだったらしい。その禍々しい超常力が一瞬怯んでいた。

「馬鹿野郎!」

 セイルの罵声と共にあたしの身体は、グイと何かに抱き寄せられていた。これは…そうだ。覚えがある、いつもあたしを抱きしめてくれる本当のセイルの腕だ。そして、この声も彼のものだ。

「セイル…!」

 思わず本当のセイルに抱きついていた。これだけ近付かないと、判らない微かなセイルの香り。そのセイルの香りは、恐怖で萎縮していたあたしの身体をあっさりとほぐしていく。
それと同時にふわりと柔らかな布があたしの全身を覆う。無意識にその布で自分の身体を隠していた。

「あ……。」
「…ったく、何を考えていた? このボケが!」

 セイルのマリンブルーの射る様な瞳が、あたしを睨み付ける。こんな状況なのにその罵声で安心してしまうなんて、我ながらなんて情けないんだろう。
悪魔の口から嘲笑が漏れる。セイルは、その悪魔を冷ややかに見つめていた。そうだ! セイルは月の運行によってその超常力を制限されているんだ。ダメよ、セイル。止めようとしているあたしは、まるで何かに遮られているかのように言葉も出てこなかった。
ううん、何より動けない。これはどうしてなの?

『死に急ぎに来たか、その者のために…。ククク、愚の骨頂とは、うぬの事を言うのだぞ。』
「…それはかなり違うぜ…。」
『クク…戦士の長であったプライドと意地か? 下らぬ事でその命、失ってもいいと見える。それとも…我にその超常力の全てを吸収して欲しいとでも言うのか。それも良かろう、そなたが消え去る事によって、我を施した封印も跡形もなく消え去るのだからな。』

 悪魔の嘲笑の言葉にセイルの唇に不敵な笑みが浮かんでいた。

「はん…言ってくれるじゃねぇか? その封印が効いているからこそ、姑息な真似をしているんだろうがよ。こいつの夢の中にしか現れる事が出来ない影の分際で、何言ってやがる。」

 セイルの言葉にあたしは言葉を失っていた。これは…あたしの夢なの? 嘘、だってしっかりとした掴まれた感覚があったわ。あたしがセイルに抱きついた時だって…。混乱しているあたしを余所に、悪魔に対してセイルは、嘲笑を返していた。

『クックククク…負け惜しみも、そこまで行けば立派なものよなぁ。この時期、うぬは決して我に勝てないと言うのを忘れたか…。』
「ふ…ん。さてね、それはどうかな。」

 セイルのその言葉に悪魔はいきなりセイルに向かって超常力を放っていた。凄まじい超常力同士の爆発が、あたしをも巻き込んでいた。耳鳴りがする、頭の中をかき乱される。
薄目を開けてセイルの姿を見つめると、セイルはこの超常力を平気な顔をして受けている。彼の唇に薄く笑みが浮かんだかと思うと、信じられないような超常力を発動させていた。

 セイルの超常力の発動によって、淡く輝く数多(あまた)の光があたしの周りに集まってくる。これは、何? この光…。そして、何らかの微かな意思が、あたしの頭の中に響いてきていた。この淡い光…セイルがいつもあたしを守ってくれている光とも違う。
でも…この波動は覚えがある。何だっただろう。

 そして――幾重にも渦巻く時間の流れと果てしない空間が広がっている。それはあたしが始めて見る物だった。セイルが発動した超常力に何よりも驚いていたのは、あの悪魔だった。
セイルの発動した超常力は、成す術もなくあの悪魔を後退させていた。
悪魔が消える間際に「何故この時期に超常力を使えるのか」と言っていたような気がする。セイルはそれに答える事はしなかった。

 あの悪魔が消え去った事を確認すると、あたしの周りで渦巻いていた無数の淡い光もいつのまにかなくなっていた。それらが消える直前に、微かな…本当に微かな小さく呟くような意思があたしの中に残っていた。

 あたしの方を向き直ったセイルは、あたしの前でその腕を下から上にゆっくりと動かしていた。次の瞬間凍っていたようなあたしの身体が動き出す。安堵の表情を浮かべたのもつかの間、セイルの表情が険しいものになっていた。

「え…?」
「え…じゃねぇだろうが!」

 本気で怒っているだろうセイルの声が響く。そして、彼の手が高々と振り上げられていた。それに反応してあたしは、思わずギュッと目を瞑っていた。そして…ある程度予想していた通り、あたしの頬は、セイルにぶたれていた。その痛みにあたしの手は、叩かれた頬を無意識に触れていた。

「俺を信用するもしないも、それはお前の自由だ。だがな! 誰が、いつ、お前の命を犠牲にしろと言った?」
「……だ、だって…。」
「お前の言い訳を聞く気はない!」

 ピシャリと言い放つセイルの怒鳴り声にビクッと身体が硬直する。それと共に頭の中にあたしの見た事もないはずの情景が浮かんできていた。それは、あたし自身の意思をかき乱すかのように遠慮なく流れ込んでくる。い、いやよ、お願い。あたしの中に入って来ないで。

《……懐かしき孤高なる青銀の獣。私にとって一番憎い者であり、そして一番愛しくもある、彼の方の意を貫く者(セイクリッド)よ……。》

 身体が何かに操られるかのように、あたしの意思とはまるで無関係に動いたかと思うと、それはセイルをゆっくりと抱きしめ、彼の首にその腕を絡め、その唇に自分の唇を軽く重ねていた。その様子に心臓が抉られるのかと思うほど、苦しくなる。

 いや…やめて、あたしのふりをしてセイルに触れたりしないで。…今すぐあたしの中から出て行って!

 自分のもてる全てでそれを拒否をすると、その意思は、あたしに対して皮肉をこめたような笑みを浮かべ、瞬時のうちに消え去って行った。それと同時に全身の力が、灯火(ともしび)が消えるかのごとく失せていく。自分の身体なのに失せて行こうとする流れを止められない…。

「フィン!」

 目の前が真っ暗になる寸前、あたしが覚えているのは…セイルがあたしを抱きとめた腕の感触だけだった。


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