まるで何かに導かれるように、ふらつく足取りで戦士宮を抜けシャーラト城の前庭にある、綺麗な噴水の前で佇んでいる。
しかしエルミアの瞳には、噴水の美しさなど全く映っていなかった。
風が、エルミアの廻りでうねりを挙げる。
【……我等が愛し児よ。】
【おお……何と言う事だ。そなたの目には、我等の姿すら映っていない。……そなたの耳には、我等の声すら届かない。】
【我等が、愛する唯一の愛し児よ。そなたが、どんな事になろうと我等の思いは、そなただけに向けられる。】
人の声ではない声が、エルミアの耳に囁かれる。
しかし、その声も、今のエルミアには届かなかった。
風が、大きく唸るとその風は、人の形となり、次々とエルミアを愛しげに抱きしめる。
微かにエルミアの顔に安堵が浮かぶ。
シャーラトを叩き付けている激しい風の中、エルミアの廻りだけは、穏やかな風が流 れている。
そんな不思議な風景を静かに見つめている二人の影。
一人は、エルミアと同じくらいか、1〜2歳年上ぐらいで白いローブを全身に纏った少女。その少女は、穏やかな表情でエルミアの姿を見つめていた。
暫くエルミアの姿を見つめ、優しく微笑むとシャーラトの夜の中をゆっくり歩き出す。
そして、エルミアを見つめているもう一人。
濃いグリーンの髪の色を持ちブルーの瞳、戦士長ラステートと同じぐらいの身長。
年齢もまだ若いようだが、その姿からは、威厳すら感じられる男性。
「……風の聖霊達が騒いでいるから何事かと思いきや…あの少女のせいか……。何と……。こんな事があるのか……?」
その男性は、食い入るような表情で、じっとエルミアを見つめていた。
しかしエルミアの眼には、自分を見つめている人影があるなどと、見えても居なかった。
只、風の流れに身を任せ、虚ろな瞳をしている。
風が、次々にエルミアを抱きしめ、エルミアの横を通り過ぎていく。
愛しげに優しく、激しく……。
やがて、風の唸りが収まり、エルミアは、再びふらつく足取りで戦士宮に戻っていく。
エルミアを見つめていた男性も、エルミアが戦士宮に戻っていくのを見届けると身を翻しシャーラト城内に向かっていった。
その翌日の事であった。
リグットの元に戦士長と、
二人は、リグットにエルミアの霊士宮入りを告げる。
それを反対したのは、リグットの娘アスティアであった。
「やだ! エルミアと離れたくない! まだ、お話もしてないのに絶対に嫌!」
アスティアの大きな瞳には、大粒の涙が溢れ出しそうになっていた。
しかし、戦士長の他に聖霊王までがきている以上、リグットに反対の余地はない。
聖霊王がエルミアを抱きかかえると、アスティアは、ボロボロと大きな涙をこぼし泣きわめく。
「いやぁ! エルミアを連れていかないでぇ!」
泣いて、エルミアにしがみつくアスティアを引き離すリグット。しかし、彼とて、納得した訳ではない。
何の前触れもなく、いきなりエルミアを霊士宮に連れていくなんて、彼女の意思を全く 無視していることではないか?
勿論、今のエルミアに意思表示をしろと言っても無理な事だが、せめて自分を取り戻 してからでも遅くはないのではないのか?
そう言った疑問が膨れ上がり、リグットは戦士長ラステートと聖霊王フィリオ・ニー ネスの顔を見る。
ラステートも、聖霊王の決定に不満なのか、憮然とした顔をしていた。
「……戦士長。せめて、何故急に聖霊王がエルミアを迎えに来られたのか、その訳くらい教えて下さい。……私の娘のためにも。」
リグットの言葉に聖霊王が、リグットの顔を見る。戦士長も、深い溜息を付きながら答える。
「……そうだな。只、連れて行くでは、アスティアも泣きやまぬだろうな……。
お前とて、納得しないだろうし……。
正直、俺は彼女を戦士として育てたいと思っていたんだが、……昨夜、聖霊王がエルミアの廻りで、風霊達が集まっているのを見たそうなんだ。
……おそらく、彼女には
淡々と語る戦士長。しかし、その言葉の端はしには、彼自身の不満も見え隠れしていた。リグットは、エルミアに風霊士の素質があると聞き驚いていた。
霊士……。
それは、シャーラトに於いて、戦士と同様ラトラーゼルと戦うために必要な存在である。
闇の人間は、剣や弓、槍などの武器で戦う戦士の他に、魔導士という存在がある。
彼等は様々な魔導を使いこなし、シャーラトの戦士達を襲ってくる。
そして、戦士だけでは対抗できない魔導士達と対等に戦えるのは、霊士と呼ばれる存在であった。
霊士は、地、水、火、風、緑の5つがあり、彼等はそれぞれ自然の聖霊と契約を結び、その力を駆使する事によって、魔導士達と同等に戦える力を持つ者である。
剣などの武器を持って戦う事すら、出来ないが、その
それ故、霊士と戦士の確執もある。互いにシャーラトを護る者でありながら自分達の方が、より優秀だと戦士も霊士も牽制しあっている所がある。
それは風の性質なのだが、風の聖霊達は、極端に気紛れで今日は風の聖霊と契約できても、明日にはその助力を得られない。
シャーラトにいる風霊士達も、何時力を使えなくなるかとビクビクしながら風の聖霊と契約を結んでいる。霊士は、時として力を発動しようとしなくても、聖霊達が自然に集まってくることも稀にある。
闇の魔導士達と戦うためにも、絶対に必要な存在。
そして、数少ない風霊士も絶やしてはいけない存在。
リグットにとってその現実は、認めざるを得ないことであった。唇を引き結び、泣きわめくアスティアを抱きかかえる。
「……アスティア。エルミアはね、霊士の素質を持っていたんだ。……だからこそ、聖霊王が直々に迎えに来たんだよ。」
言葉の端を震わせながら、出来るだけ穏やかにアスティアに話しかけるリグット。
アスティアは、グシグシと泣きながらリグットの顔をじっと見つめ、次にはリグットのサラーナを握りしめ再び泣き出した。
「やだぁ! エルミア、霊士宮に行ったら苛められるぅ! そんなのやぁ!」
幼いアスティアの言葉に、リグットもラステートも聖霊王フィリオも顔を強張らせ、ビクッと身体を硬直させる。
このアスティアは、シャーラトに生まれ育ったため外の世界を知らない。
だがこの口振りでは、混血の者や闇の者が、光に属する所でどんな扱いを受けるのか知っているようである。
戦士達に愛されて育ってきたアスティア。エルミアの行く先を案じるように泣きわめく。
霊士達は、エリート意識が強くプライドも高い。
確かにそんな中にエルミアが入っていったら、彼女の言う通り、他の霊士達に酷い仕打ちを受けるだろう。
聖霊王フィリオは、アスティアの言葉に顔を歪ませ俯いている。
戦士長ラステートも、悲痛な顔をしながら俯いている。
リグットすら、アスティアの言葉に唇を噛み、その視線を逸らす。
誰もが、分かり切っている現実。
だが、ラ・リューラの決定には逆らえない。
大人達は、幼いアスティアの言葉に只沈黙するしかなかった。
泣きじゃくるアスティアを、何も言えず抱きしめる事しかできないリグット。
戦士長ラステートも、済まないと言うようにアスティアに頭を下げる。
聖霊王フィリオは、自分の腕の中にいるエルミアを見つめその後にリグットの部屋に来て、初めて声を発した。
「……戦士長補佐リグットを父に持ち、星巫女であるセティーラを母に持つ幼いアスティアよ。お前の気持ちはよく判った……。
このシャーラトには、光という存在でありながら様々な矛盾がある。
それを良く覚えておきなさい。……我々も次の世代のために、色々手を尽くすが、本当の意味で、このシャーラトを導いていくのは、お前のような人の痛みをわかってあげられる者達なのだよ。お前が大人になった時、自分が感じた矛盾を少しずつで良い……。変えていくように努力しなさい。
そして、このエルミアもお前と同じように、次の世代に育つ者。
……約束しよう。私に出来る限り、霊士宮でエルミアを守ると。決して危険な目には、合わせない。それが、お前から友達を奪っていくせめてもの私に出来ることだから……。」
聖霊王の言葉にアスティアも涙をこぼしながら聞き入っているが、半分以上は、彼女も幼いためかよく判っていなかったようだった。
リグットは、フィリオの言葉を聞き、眼を見開いている。ラステートは、フィリオの言葉に静かに頷く。
聖霊王フィリオは、再びエルミアを見つめ、独り言のように呟く。
「これから、苦しいことがあるかも知れない……だが、今はお前を守るためには、どうしても必要なことなのだよ。」
そう言うと、エルミアを抱えたままリグットの部屋から出て行く。ラステートもアスティアの頭を撫でて、フィリオの後に続く。
アスティアが、リグットに抱かれたまま、身体を乗り出しエルミアとの別れに泣いている。
未だ自分を取り戻していないエルミアにとって、アスティアの泣き声も、リグットの心配そうな顔も、白い闇の中に浮かぶ虚ろなものでしかなかった。
エルミアが、聖霊王によって
風が、まるで叫んで居るかのように大きな音を挙げ雨と雷を招いている。
そんな中、エルミアは、霊士宮の一つの部屋の中で小さく呻き声を上げていた。
だが、その声は、激しい嵐の音にかき消されていく。
凄まじく強力な光が、エルミアに襲いかかる。
身を切られるような嘆きが響き渡る。
砕け散った母様の身体。
そこから飛び散る、多量の赤いものが、あたしと父様を深紅に染めていく。
不敵な笑い声と共に、冷たくなっていく父様の身体……。
父様に泣き縋るあたしを、冷たく見据えている甲冑の男。
何故!? どうしてこんな事になったの!?
いつも強くて、優しかった父様と母様が…。
『母様ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!』
美しい母様の身体が、スローモーションのように粉々に砕け散る。
死んじゃ嫌だ! あたしは、まだ、母様に何も返していない!
母様があたしに注いでくれた愛情の何万分の一も返していない!
願いも空しく、母様の身体は粉々になり、空からその一部がボタボタと落ちてくる。
そして深紅の雨が、否応なしにあたしや父様に降り注ぐ。
父様は甲冑の男と激しく戦っている。
危ないよ! 父様!
男の持っている漆黒の剣が、父様の心臓めがけ突き刺さる。
『嫌だ!! 父様ぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!』
思わず、父様の側に駆け寄り、泣き縋るあたし。父様の唇が、微かに動く。
何? なんて言ってるの!? 判らないよ!
その間も、甲冑の男は、父様を無惨に斬りつける。
『フ……ン、まだ生きているのか? ククク……流石にしぶといな。』
ぞっとするほど冷たい声が頭の上から響く。
見上げたあたしの上には、漆黒の剣が妖しい光を放っている。
『父様!! 逝かないで!! フィンを一人にしないで!!』
泣き叫ぶあたしの頬に、父様の震える手が触れる。
次の瞬間、男は、剣を勢い良く父様めがけ振り下ろす。
『やめてぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!』
あたしの絶叫は、風にかき消される。
父様の背中にあいつの剣が突き刺さる。
その瞬間、父様はカッと眼を見開きその一瞬で、父様の命の火が消えた。
ドクドクと溢れる血が、あたしの手を身体を深紅に染める。
感覚が麻痺する。冷たく、物言わぬ物体。
粉々に砕けた肉片……。
これが……父様…と……母様……なの?
嘘だ……こんな事……信じない……。
狂気に満ちた男の瞳が、あたしを見据える。恐怖で、身体が凍り付く。
無造作に父様の背中から、剣を引き抜きその剣に付いている父様の血をペロリと舐める男。
その剣先が、あたしの方に向けられる。
『嫌ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!』
薄れゆく意識の中で銀色に輝く光が爆発し、あたしは白い闇の中に追いやられる。
暗闇の中、エルミアは力の限り身体を撥ね起こした。
全身が、冷や汗でびっしょり濡れている。
そんなエルミアのいる部屋に、時々雷の轟音と共に一筋の稲光が、エルミアの姿を浮かび上がらせる。
……今のは夢……?
不意にそう思ったエルミア。
が、何処を捜しても両親の姿は、エルミアの側にはなかった。
エルミアの漆黒の瞳から、涙が次々に溢れてくる。
……違う……あれは夢なんかじゃない!
これ以上ない、残酷な現実だ!
「……父様!! 母様!!」
エルミアは、嵐の中シャーラトの冷たい霊士宮で自分を取り戻した。
ここが、どこだか判らないまま……。
エルミアは、ベッドに顔を埋め、大声を張り上げて泣き出した。
恐ろしさと悔しさの余り、全身を震わせて声の続く限り泣いていた。
幸いなことに嵐の音が、エルミアの声をかき消してくれているため、誰にも邪魔されることはなかった。
胸が切り裂かれるほどの辛い慟哭。何度も何度も、両親の死に様が、自分の脳裏に焼き付き繰り返される。
父様や母様とずっと一緒だったのに!
どうしてこんな事が起きたの!
あたしから、父様と母様を奪った奴等を絶対に許さない!!
あたしから、二人を奪っていったセイルースを!!
ラトラーゼルの奴等を!
父様!! 母様!!
貴方達二人を失うくらいなら、あたしも一緒に死んでも良かったのに!
どうして!?
どうして、あたしを一人残して死んでしまったの!?
あれが、只の悪夢であってほしかったのに!
全てが現実なんだわ!
ついさっきの出来事!!
エルミアの中では、7日前の出来事ではなく、ついさっきの出来事のように鮮やかに生々しかった。彼女は、生まれて初めての孤独を両親の死で、実感していた。
止めどなく溢れる涙や、心の痛みが、現実を顕わにする。
つきることのない涙が、再び生きるための動力となっていく。
自分の両親を殺した、ラトラーゼルの最強の戦士セイルースを自分の手で倒すこと。
そして……こんな風に自分達を追い込んだラトラーゼルを叩きつぶすこと。
エルミアは、泣きながら、強い決心をする。
そして、それは、彼女が大きな運命の渦に巻き込まれていくことを暗示している。
だが、今エルミアは、自分の父や母のため、そして自分のために泣き続けていた。